Gymnaster 運の悪さには自信がある。 学校の近くにあるドラッグストアのクジ付チョコレートで当たりを出したことは未だにないし、授業中に指名される順番を予測していても、思いもよらないタイミングで名を呼ばれることはしばしばだ。 席替えで教卓の前の席を引くことも1度や2度ではない。クラスの係の仕事だって、いつだって一番地味な役割になると決まっている。 けれど、よりによってこんな日にその運の悪さを発揮することもないだろう。 銀(ギン)はキプロス書店のからになった棚を眺め嘆息する。今日は何日も前から楽しみにしていた、大好きな冒険小説の続刊が発売される日だったのだ。 大海原を舞台に大国の海軍と海賊、小さな国の王女とその友人の少年が、伝説の秘宝を求めて戦いをくりひろげる海洋冒険小説だ。前巻では王女が海賊に捕まってしまったところで終わっており、今回は少年が海軍と手を結んで王女を取り戻す作戦が展開されているはずなのである。 学校でも人気の高い本なので早めに手に入れなければすぐになくなってしまうと、発売されたその日に買いに来たというのに。 棚はからっぽだ。 店主によれば、銀が来るつい5分前に最後の1冊が売れてしまったと言う。 「他の町でも人気のある本だから、それほど多くは仕入れられなかったんだよ。次にいつ入ってくるかもわからないんだ」 初老の店主は困った顔で言う。店主にとしても予想していたより仕入れが少なかったのだ。いつも買いに来る子供はわかっていたので、その子供たちの分ぐらいは確保しておきたかった。 「誰が買って行ったの」 銀は店主を見上げて尋ねた。 「見かけない子だったよ。銀と同じくらいの。青い上着を着ていた。銀の分に取っておこうと思った矢先に入って来て、さっと最後の1冊を取ってしまったんだ」 そうなると売れないとは言い出せなくて、と店主は申し訳無さそうに銀に謝る。銀は首を横に振った。ここで駄々をこねるほど、もう子供ではない。じきに11になるのだ。 「ありがとう、おじさん。きっとクラスの誰かが持っているから借りるよ。図書館にも入っているし。でも新しく仕入れたら教えて」 なるべく明るく聞こえるようにと思いながらそう言い、店主の話も聞かずに店を飛び出した。 正直に言えば、泣きたいくらいに悔しい。クラスでも銀ほど読み込んで詳しく理解している者はいないというくらいに、銀はその小説が好きなのだ。海洋学にも興味を持ち、その知識と小説の中の描写をもとに、夏期休暇には緻密な軍艦模型を制作した。続刊では海賊船の描写が多いはずだから、それを読みながらこの冬期休暇中に海賊船の模型を作ろうと思っていた。 計画していたそれらの楽しみが、すべてだめになってしまった。家へ帰る足取りも重くなる。 このあたりで書店といえば今飛び出してきたキプロス書店しかなく、あんな小さな書店でさえも売り切れてしまうのなら、おそらくもっと大型の店に行かなければ手に入らない。ここから一番近い大型書店は、3駅離れたスマルト・ブックストアだ。しかし大型店だけあって客数も桁が違う。スマルト・ブックストアでも売り切れていると考えておいた方が良さそうだ。 何度目かわからないため息がもれ、銀はうつむいていた顔をふと上げる。いつの間にか、書店と家とのちょど中間にある公園にさしかかっていた。このまま家に帰っても落胆したままぼんやりとすごすだけだ。銀は少し気分を変えようと、公園に立ちよることにした。 公園にはいくつかの遊具とベンチがある。遊具はペンキが剥げかかり、近隣の母親たちからそろそろ安全性に疑問の声があがりそうだ。自分の子供に傷をつくらないことだけを考えている母親たちには、古い遊具の趣などわかりはしない。 ベンチは、小さな公園には不釣り合いに凝ったものが置いてある。鋳鉄の肘がやけに優美なのだ。太い線がおおらかな曲線を描いて背もたれに収束し、その間を細い線が植物の形をつくって密に埋めている。ところどころに施された葉の形も良い。 銀はこのベンチが好きで、どんなに沈んでいてもこれに座っていれば気持ちを落ち着けることができた。 しかし、あいにく先客がいた。銀と変わらないほどの少年が、ベンチで本を読んでいるのだ。銀はまたしても自分の運の悪さを恨んだ。 あきらめて帰ろうとしたが、銀は少年の持っている本に見覚えがあるような気がして立ち止まった。よく見れば、かけられているカバーはキプロス書店のものだ。アイスグリーンの地にアイボリーでCyprusの飾り文字がある。表面の粗い硬めの紙なのに、不思議と手触りはなめらかでよく手になじむ。 少年はスモークブルーのコートを着ていた。銀は店主の言葉を思い出す。最後の一冊を買って行ったのは、青い上着を着た子供だったはずだ。 銀は思わず少年を注視していた。すると気配を察したのか、少年が本から顔を上げた。銀と目が合う。 「何だい?」 気を害した風でもなく不審がるでもなく、少年はするりと言った。 驚いたのは銀の方だった。そう近い距離でもないのに、気づかれるとは思わなかったのだ。 「いや……」 何を言えば良いのかわからず口ごもる。唐突に本のことで文句を言うわけにもいかない。 銀が黙っていると、少年が思いついたように立ち上がった。 「もしかして、ここは君の場所だったのかい?」 少年は銀の方へ駆けよる。困ったような表情をしていた。 「だったら悪いことをしたね。ごめん」 素直に謝られて、銀はよけいに困惑した。うん、とはっきりしない返事をしながら、少年の手にある本に目がいく。少年はその視線にも気がつき、ああこれかい、と朗らかに言った。 「人気があるから知っているかな。海を冒険する話なんだけど……」 「う、うん。知ってるよ。それ、新しいやつだろう」 そうなんだ、と少年は嬉しそうにした。 「スマルト・ブックストアは知ってるかい? そこに行ってみたら午前中に売り切れたと言われたんだ。でもあきらめきれなくて、どこかの店には1冊くらい残ってるだろうと思ってあちこち見てまわっていたんだ。ついさっき小さな店でやっと見つけたんだよ」 ブラウンの目を輝かせて少年は熱心に語る。その様子は銀にも覚えがあるものだ。少年が本当にその本を好きなことが、銀にはよくわかる。困惑していた気持ちが落ち着き、銀は少年に親しみを感じた。 「君はこのあたりの子なの?」 少年の問いに銀は頷く。すると少年は、いいなあ、と銀をうらやんだ。 「僕はね、ここから3駅離れたところに住んでるんだ。スマルト・ブックストアはすぐ近くだ」 「いいじゃないか。あんな大きな店が近くにあるなんて」 「まあね、それは嬉しいよ。でもそれ以外は全然だめさ。あのあたりには、こんな公園ないもの。どれもこれも新しくできたものばかりで味気ない」 スマルト・ブックストアのある町は、4年前に整備されたばかりだった。銀も、初めて訪れたときには期待を裏切られたものだった。新しく作られた町並みをいろいろと想像していたのだが、画一的で面白味がなく、特別惹かれるところのない町だったのだ。 「それにこの本。このあたりに住んでいるなら、君はこの店を知ってるんだろう? いい店だね。こんなに質のいいカバーをかけてくれる店はそうない」 少年は手触りを愛おしむように、アイスグリーンの紙をなでる。キプロス書店のカバーは銀も気に入っている。銀は誇らしく嬉しい気持ちになって微笑んだ。 それより、と少年はベンチを見遣る。 「あのベンチは君の場所だったんだろう? 悪かったね、取ってしまっていて」 「いいんだ、そんなの。少しよってみただけだから」 銀は慌てて首を振った。銀の中には少年に対する好意が生まれている。この公園やキプロス書店のカバーの良さを理解する者は、今まで銀の周囲にはいなかった。 「君、スマルト・ブックストアの方なら第3小学校なんだね」 「うん。5年生だ。君は第2小学校だね」 「そうだよ。僕も5年生なんだ」 ふたりは少し照れたように笑い合う。銀も少年も、互いに友達になりたいと思うようになっていた。 「僕は銀。君は?」 「津(シン)っていうんだ」 はじめましての代わりに、銀は津をベンチに招待した。 (up:03/03/23)
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