青い自転車

 情緒不安定は思春期の特権だ。と思う。
 実際には大人にだって不安定な人はいるし、このくらいの年齢だけに限ったことではないけれど、不安定でいることを誰もがなんとなく許容してくれる時期というのは、たぶん今しかない。
「それに甘えるのもどうかと思うけど、甘えられるんなら甘えとくのもいいよね」
 ユカリはさっぱりとした顔でそう言った。オレは深くため息をつく。
「なに?」
「……言いたいことはいろいろとあるんだけどさ」
 何から言おうかと頭をめぐらせると、この状況に対する疲労感が倍になってオレはまたため息をついた。
「早く言ってよー。ため息ばっかりつかれると嫌になる」
 ユカリの声が少し苛ついてきたので、じゃあ言うけど、と素直に口を開くことにした。
「まずさ、なんで海なわけ?」
 言って目の前の広い海原を見渡す。オレたちが座り込んでいるのは防波堤なので、本当に何も遮るものがない。水平線が視界を上下に分断している。
 だってさあ、とユカリが少し笑った。
「朝起きたらなんとなく潮の匂いが鼻についてさ。ずっと気になっちゃって、海行きたくてたまらなくなったの。ミチはそういうことない?」
「あるけど……」
 ユカリは、オレのミチハルという名前をミチと略して呼ぶ。小さい頃の癖がいまだに抜けていないのだ。
 海端の街で同じように育った身としては、ユカリの言う海に行きたくてたまらない衝動というのはわかる。慣れたはずの潮の匂いが、どういうわけか気になって仕方のない時というのはオレにもある。
 それにしても、だ。
「5時間目の英語、単語テストあったのに……」
 ぼそりと呟くと、ユカリに「そんなの気にしない気にしない!」と背中を叩かれた。
 昼休み、教室で漫画を読んでいたところを、暇ならつきあえとユカリに拉致された。春に買ったばかりのユカリの青い自転車の後ろに乗せられて、気がついたら海まで連れて来られていたのだ。
 快晴の初夏、平日の昼間。釣り人もいない防波堤にぼんやり座り込んでいるのは、和みもするが、同時に何をやってるんだと自問したくもなる。
「で? あとは?」
 昼休みからの行動を思い出して途方に暮れかけたが、ユカリに先を促されて質問を続けた。
「あとは……なんで情緒不安定?」
「言ったじゃん。思春期って」
「おまえ高3にもなって思春期って言うか?」
「言ってもいいでしょ。実際には17なんだし、じゅうぶん思春期の範囲だよ」
 思春期の子供が自ら自分は思春期だなんて公言するか、と言いたくなったのをこらえる。理屈としては間違っていない。しかし本当に訊きたいのはそんなことではなく、もちろんユカリも質問の本当の意味をわかっているはずだ。それを茶化して逃げようとするのを、オレは見逃してやる気にはなれなかった。ここまで連れ回したのだから、オレには聞く権利があるし、ユカリだって多少は話そうという気持ちがあるはずなのだ。
 だから、そうじゃないだろ、と、いくらか叱るような調子で言った。
「話せよ」
 ユカリの顔を見ないように、視線は水平線へと向ける。まじまじと顔を見られながら真面目な話なんかできないだろうから。
 ユカリは照れたようにへへへと笑って、うん、と言ったきり黙りこんだ。
 オレはユカリが話し出すのを待った。水平線のすぐ上に、小さい雲が浮いているのを眺める。快晴の日差しは予想以上に強く、ユカリが焼けるのを少し心配した。ユカリの皮膚は黒くならずに、真っ赤になって痛むのだ。
「……だめだ、なんか上手く言えそうにない」
 多分うつむいているのだろう、そう言った声が少しこもっている。
「上手くなくていいよ。話せそうなとこから話せばいい」
 急ぐ必要はない。どうせ5時間目が終わるまでは戻れないのだし、6時間目もサボったっていい。オレもユカリも、クラス合同の選択音楽の授業だったはすだ。1回くらい出なくとも問題はない。
 オレが長期戦の構えでいるのを察して、ごめんね、と柄にもなくしおらしい謝り方をする。そして長いため息の後、消えそうな声で何かをつぶやいた。たぶん、卒業したくない、だ。
「卒業?」
「うん。……あ、聞こえちゃった? 聞こえなきゃいいのにと思ってちっちゃい声で言ったのに」
「聞こえるだろ、この距離なら」
 聞こえないふりをしてやるのもできなくはない。しかし、今オレはユカリの話を聞くために隣にいるのだから、そうしてやる必要はないのだ。ユカリが望んでいても。
「卒業って、まだ半年以上も先だぞ」
「“も”じゃないよ、あと半年とちょっとしかないんだよ」
 わかってないなあミチは、とバカにしたように言いながら、うつむいていた顔をあげる。背中より後ろに手をついて空を仰いだ。
「ミチはさ、そういう風に思ったりしないの?」
「卒業したくないって? まあ思わないでもないけど」
「でもミチにとっては半年とちょっとは“半年以上も”なんだよね」
 オレは口をつぐむ。ユカリの言いたいことがなんとなくわかってきた。でもそれはオレたちが自分で決めたことだ。どうしようもないことだ。
「やだなあ、この温度差」
 苦笑いにのせる調子で、ユカリがつぶやいた。オレも同意見だ。お互いに責める権利もなく、かといってどちらかに同調することもできない。オレには、しょうがないだろ、と言うことしかできなかった。
「オレは大学なんか1年のときから決めてたし、ユカリだって」
「わかってるよ。そんなのわざわざ言わなくてもいいよ」
 背中からぱたりと倒れながら、ああもうミチむかつく、と吐き捨てた。オレもとっさに言い返す。
「ユカリもむかつく」
「うるさい。ミチが話せって言うから話したんじゃん。黙って聞いてれば良かったのに」
「オレには発言権なしかよ」
「ないよ。こっから出てく人間には、なんにも言う権利はありません」
 それはとても正論のような気がして、オレは本当になにも言えなくなった。捨てる、という気持ちがあるわけではないけれど、出たいと思い続けていたことは事実だ。それは、小さい頃から一緒だったユカリが地元の大学へ行くことを聞いても、変わらなかった。
 たぶんユカリの気持ちは半々なのだ。ここに残るのを決めた気持ちと、オレと同じに出たい気持ちと。そして今は、出たい気持ちをむりやりに押し殺している。それはまだ隣にオレがいるからできていることで、オレがいなくなったらユカリは自分の選択を後悔するのかもしれない。ユカリはそれを恐れているのだ。
 だからユカリにとって半年と少しは、短い。
「……ほんとに、ミチハルにはそんな権利ないんだから、なんにも言わないで出てってよね」
 ふいにトーンを落とした声でユカリが言った。意味をとりかねて、寝転がったままのユカリを振り返ると、見るな、とにらまれたので再び海へと視線を戻す。
「わたしもなにも言わないからミチもなにも言わないで。ぜったい」
 念をおされて、ようやく理解した。理解して、にらまれたことも忘れてあわててユカリを振り返る。ユカリは両腕で顔をおおい、見るな、と今度は怒鳴った。
 オレは海を目の前に、ただうなだれることしかできなかった。ごめん、という言葉が口をついて出そうになったけれど、それは卑怯だという思いがして結局何も言えなかった。
 自分の情けなさに身動きもできない。オレたちは、時間が無為にすぎていくのを止められもしなかった。

20040926

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