最後の晩餐 (1)

 慣れた手つきで暗証番号を入力する。番号は認証され、重たいガラスの自動扉が開く。
 一歩踏み入れ、ひとつ大きく呼吸をした。今まで自分を縛っていた重苦しさが抜けていくように感じられた。この建物(マンション)の中にヒサキがいる。それだけで、リヅにとっては空気さえも清浄なのだった。
 エレベータは待ち構えていたように1階にとどまっていた。ボタンを押せばすぐに口を開く。乗り込み、最上階の数字を押した。最新型のエレベータはかすかな唸りをあげてリヅをヒサキのもとへと運ぶ。ヒサキの部屋へ近づく、その1秒ごとに身体が楽になっていくのを、ゆっくり息を吐き出すことで実感した。
 停止したエレベータを降りて左、まっすぐにすすんだ突き当たりがヒサキの部屋だ。合鍵を差し込んでゆっくりまわす。ロックのはずれる音を聞き取ってから開けるのがリヅは好きだった。容易には他人に開かないヒサキの扉を、自分は開ける権利を持っている。許されている。解錠の音は、それを何度も確認させてくれる。
 扉を開け、まず目に入った脱ぎ散らかされたヒサキの細いミュールをそろえてやる。くすんだ青色が、ヒサキのただでさえ白い足をよりいっそう青白くみせるだろうと思い、先月リヅが贈ったものだ。どうやら気に入ってもらえたようだと安堵する。その隣に男物の靴があることに、リヅはとうに気づいていた。赤い革の紐靴だ。ダークチェリーのような濃い赤色。角張った爪先の、甘くなく上品すぎもしない靴だ。趣味は悪くないらしいとリヅは思った。

 ヒサキの部屋は広い3LDKで、若い女の住処としては高級すぎる。おそらくはこの部屋も、ヒサキの崇拝者のひとりが用意したものなのだ。どこかの金を持て余した年寄りが、ヒサキの美貌に入れ込んで衣食住の世話をあれこれとやきたがるという図は、笑えるほど簡単に想像できる。ヒサキはそれほどに美しい。
 3LDKのうちでも、この部屋の目玉なのだろう20畳もの広さを持つリビングルームには、今はヒサキの姿はなかった。代わりに、男がひとりソファでくつろいでいる。若い男ではあるが、ヒサキやいまだ学生であるリヅよりは年上のようだ。よく履きこまれたジーンズだけを身に付け、上半身は裸体をさらしている。骨と筋ばかりが目立つ、細い身体ではあるが貧相ではない。ヒサキ好みの、卑しさのない身体だ。
 男はリヅに気づき、読んでいる風でもなく眺めていた雑誌から目をあげる。突然の訪問者を不審がる様子もない。寝室だよ、とだけ呟いた。ヒサキの居場所だろう。
「眠ってる」
 リヅは了解を示して頷き、ダイニングのテーブルセットに荷物を預けるとキッチンへ入った。

 ヒサキがここに住んで2年は過ぎるが、この最新型のキッチンはまだ新品同様だ。時折リヅが使うか、リヅ以外の誰かが使うだけで毎日使われるわけではないからだ。ヒサキは料理をする必要がない。あの白く細い繊細な手や指や爪が荒れることは、リヅにとっても多くの崇拝者にとっても堪え難いことなのだ。そうなるくらいなら、彼らはヒサキのために食事を用意したりあるいは連れ出したりする。おそらくは着飾らせて連れ出すことの方が多く、リヅのように自ら食事を作る者は少ない。
 リヅは顔がくっきりと映りそうなほど傷の少ない銀色の鍋に水を張り、火にかけた。ダイニングに戻って食料品店の紙袋から、青々としたブロッコリーとベーコンの包みを取り出す。ふいに背後に気配を感じ振り返ると、くつろいでいた男が立っていた。
「手伝おう」
 リヅは小さく会釈し、謝意を示した。いくつかの野菜を預け、サラダを依頼する。男は請け合い、キッチンへ消えた。

 リヅは驚いていた。今まで、ヒサキの部屋で他の人間と遭遇したことは何度となくあった。その場合、互いに無関心でいることが暗黙の了解だ。ヒサキは愚かな人間を嫌う。この部屋に招かれた者は、自分がヒサキにとって唯一、などとは考えない。ヒサキの美貌が特定の誰かの手におさまるようなものではないことを、皆よく知っていた。ただ一時、ヒサキの気まぐれに選ばれたことを歓び、それ以上の深入りはしない。したがって、自分以外のヒサキの相手にも極力関わらない。
 そのような作法に慣れているリヅにとって、男の申し出は初めての出来事だった。申し出る際の様子が素っ気ないほどだったのをみれば、決して野暮でも鈍いのでもないことはわかる。見た目の線の細さからはわかりにくいが、人と関わるコツを心得ているようだ。それはリヅにも、ヒサキにもない能力だ。ヒサキが彼を選んだのは、身体の好みばかりではないのかもしれない。
 リヅもキッチンへ戻り、調理をはじめる。火にかけた鍋は具合良く沸いている。そこに切り分けたブロッコリーをくぐらせ、冷水にひたして色を保つ。同じ鍋で今度はペンネを茹で上げた。フライパンにオリーブオイルを引いて細く切ったベーコンを炒め、ブロッコリーとペンネを合わせた。塩と胡椒で味を整える。普段、食事に連れ出されるヒサキは複雑で濃厚な料理を食べることが多いが、自身は簡単で薄い味付けを好んだ。
 ペンネを盛り付けていると、男が面白そうにリヅの手元をのぞく。
「手際が良いな。料理は得意?」
 ええまあ、と曖昧な返事をする。男もなかなかの手早さで、すでにサラダばかりでなくスープも作り終えていた。ヨーグルトとバジルペーストを使ったサラダと、溶いた卵の簡単なスープだ。ヒサキの好みをよく把握している。
 ダイニングのテーブルに出来上がった皿を並べる。ヒサキを起こしてきます、と男に断り、リヅは寝室へと向かった。

 礼儀として寝室の扉をノックするが、返事があるはずもない。リヅはノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
 寝室の中は、ヒサキが横たわるベッドが置かれている他は、大きな窓にレースのカーテンがかかっているばかりだ。ダブルのベッドを置いてなお面積に余裕のある、広すぎる部屋だった。
「ヒサキ」
 後ろ手に扉を閉めながら、少しだけ声をかけてみる。ヒサキの反応はない。ベッドへ近づくと、柔らかい毛布から長い髪だけがはみ出してうねっていた。その薄茶色は天然で、カーテンの隙間から差す遅い午後の陽光に透ける。リヅは髪のひと房を手に取った。この髪を健やかに保つのが、リヅの役目だ。美容師の資格を取得したら、リヅはヒサキのためだけの美容師になる。ヒサキの髪に心を奪われたリヅと、学生ながら特別の腕を持つリヅを気に入ったヒサキとの約束だった。
 手にした髪は相変わらず細く、しかししなやかで手を離せばさらさらとこぼれる。すると、くすぐったそうにヒサキが身じろぎした。
「ヒサキ?」
 もう一度名を呼ぶと、眠たげに小さくうめいた。そっと毛布をめくれば秀でた額がのぞく。陽光に瞼を射られてヒサキは顔をしかめた。ごろりと寝返りをうって仰向けになれば、美しい顔がよく見えた。筋の浮いた折れそうな首に続く卵型の輪郭を持つ小さな頭、肌の色は寝巻の白絹が映えて青白く、対照的に薄い唇は火照っているように朱い。その唇がうすく開かれた。
「……カヤネ?」
 まだ半分眠りにいるような声音で、ヒサキはリヅの知らない名前を呼ぶ。おそらくそれは、今ダイニングにいるあの男の名前だ。つい先ほどまでヒサキの隣で眠っていたであろう男の名前だ。
 眠りに捕まりながらヒサキは探るように手をのばす。カヤネを掴もうとする繊細な指を、リヅの手がそっと包んだ。
「僕だよ、ヒサキ」
 それが合図かのように、ヒサキの目が開かれた。すっきりと眦(まなじり)の切れ上がった目は少しずつ焦点を合せていく。赤鉄鉱(ヘマタイト)の虹彩が煌めいた。
「おはよう、ヒサキ。食事を作ったんだ。食べるかい?」
 ぼんやりとするヒサキを驚かさないように、リヅは無意識に声をひそめた。ヒサキは小さく頷いて、あ、と声をもらした。
「リヅ。来てたの?」
 はじめてリヅの存在に気づいたというように、そう言いながら身を起こす。白絹の寝巻が、ヒサキの動きにしなやかに添った。
「支度をして、ダイニングに来て。彼も待ってるよ」
 ええ、と短く応えて髪をかきあげるヒサキを残し、リヅは部屋を出た。彼という単語に反応するように瞬きをしたのを、リヅは見逃さなかった。

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