爪先に星の光を (2)

 ごめん、と謝罪の言葉が口をついてでた。
「宮橋さん?」
 井村が驚きの声をあげる。静は、カップから目をあげずに、もう一度ごめんと言った。
「どうして謝るの」
「無理矢理、話させちゃったから。ごめん、わたし何も考えてなくて……辛いこと言わせた」
 かすかに笑う気配がして、静は目をあげる。
「気にしなくていいよ。少しも辛くないって言ったら嘘になるけど、そんなに絶望してるわけじゃない。桐子さんを好きになったことは後悔してないし、好きな気持ちは今でも変わらないから。それに、最初に宮橋さんにひどいことを言ったのは僕の方だからね」
 そんなに簡単に僕を許したらだめだよ、と冗談めいて言ってみせる。静もつられて笑った。
「その桐子さんは、今は一緒に住んでないんだ?」
「うん。僕が中学に入った頃に母と別れたみたいで。別れたって言っても、愛情がなくなってってわけじゃなくて、桐子さんが仕事で海外に行くことになったからなんだ。今でも連絡はとってるよ」
 時々、日本に来ることがあれば会いに行くのだという。それなら良かったと、静は心から思った。
「じゃあ、宮橋さんの理由も聞かせてもらえる?」
 井村の話を聞いたのだから、自分も話さなければならない。静は一度唇をきつく結び、素直に頷いた。
「わたしの場合は、すごく子供じみたわがままなんだけど……わたしはたんに、女の身体が嫌いなんだ」
 本当の理由を他人に話すのは初めてだった。自分でもあきれるほどの、子供っぽい嫌悪感。それが他人にどう聞こえるのか、静は少し怖いと思った。再び視線を落とし、カップを両手で握りしめる。
「本当に、ただそれだけなんだ。女の身体が嫌い。……女の身体がどれほど重くて、どれほど無駄が多いか、たぶん井村くんにはわからない。同性の友達に言っても、理解してもらえないと思う」
 井村は相づちもうたずに、ただ黙って聞いている。あきれられているのではないかと、不安になる。
「この年で、こんな中学生の女の子みたいなこと考えてるのも恥ずかしいけど、それでもわたしは自分の身体が気持ち悪くてしょうがない。女らしい柔らかさとか曲線とか、そんなものは要らない。わたしはただ、無駄のない身体になりたいって、ただそれだけ……」
 女物の服は、当然ながら女性の身体の線を強調する。できれば忘れていたい、自分の身体を眼前につきつける。そんな服は着ていたくない。
「それが、わたしが男物を着る理由だよ。自分の身体から目をそらすために、着てる」
「宮橋さんの言う無駄のない身体が、男の身体っていうこと?」
 穏やかに発せられた問いに、静は首を横にふる。
「そうは思ってない。男の身体にだって無駄はあるし、不自由もあるでしょう。でもわたしが知っている中では、男の身体が一番理想に近いっていうだけ。…………すごくばかみたいなことを言うけど、わたしがなりたいのは性別のない身体なんだ」
 そこまで言って、静は後悔した。話さなくてもいいことまで話している気がする。しかし、ずっと誰にも話すことなどないと思ってきたことを一度口にすると、もう止められなかった。
「男とか女とか、そういうものもわたしには無駄に思える。わたしは一番ベーシックな、何もない身体になりたい」
 一息にそう言い、すっかり冷めたカフェラテを口に運ぶ。カップをテーブルに置くまで、井村からの反応は何もなかった。
 あきれられているならそれでもいい。静はただ、話したかった。そう思えるようになっていた。
「そんなのももう終わりにしなくちゃいけないって、わかってもいるんだけどね。どうしたってわたしはわたしの身体以外のものを手にすることはできないんだし。早く自分の身体に納得しなくちゃいけない……」
 後がないけど、すすむこともできない。井村に言われた言葉が、あらためて身に刺さる。
 それでもずっと抱えてきた思いを口に出せて、静はすっきりとした気分になれた。ずいぶん前から気づいていながら、気づかないふりをしていた危機感と向き合うのは、恐ろしいことだと思っていた。しかし今この場に、井村という同じ異装の手段を選んだ人間がいることが、静にとっては思いがけず心強いことだったと気がつく。
 話せて良かった、聞いてくれてありがとう、そう言うつもりで落としていた視線をあげる。が、用意していた言葉がすっかり引っ込んでしまった。
 井村の目には、うすく涙がたまっている。
「え、と。……井村くん?」
「ごめん。僕の方が、辛いことを言わせてる……ごめん」
「そんなの、謝らなくていいよ! わたしも、辛くないわけじゃないけど、向き合う機会をもらえて良かったって思ってるくらいだから。ずっと逃げ回ってて、でもそれじゃいけないって、そう感じてはいたから」
 慌ててそう言うと、井村がふっと笑った。
「変だね、僕たち」
「何が?」
「はじめはお互いにあんなに警戒してたのに、今は慰めあってるなんて」
 そういえば、ほんの少し前まで井村は静の嫌いな人間だったのだ。視界にいることも耐えられないほどの。それが今は『同志』ともいえるほどのシンパシーを感じている。
「ほんとだ。変だね」
 静も可笑しくなって笑ってしまった。
 もっと早く話せば良かったと、静は思った。似すぎているからつい敵視して距離をとってしまったけれど、誰より理解しあうことが可能なのは、おそらく明白だったのだ。
「僕たちは……」
 笑みをかたちづくったまま、井村は目を細める。それはあの思い出を懐かしむ表情とは違う。もっと淋しく、深い哀れみを浮かべている。
「僕たちはどうして、まるで叶わないことばかり望んでしまうんだろうね」
 静は一瞬言葉を失い、ため息のように、そうだね、と吐き出した。
 月が欲しいと子供が泣きわめくことが、ないものねだりといわれるけれど、自分たちの場合はそれほど苛烈なものではない。泣いて叫んだりはしない。
 ただこの爪の先に星の光を灯せるならばと、清冽なほどに深く、じっと祈るように、願うだけなのだ。
「……付き合ってくれてありがとう。これ、ごめんね。返すよ」
 哀れみをふりきるように、井村が文庫本をさしだす。その存在を静はすっかりと忘れていた。そういえば、これを取り返すためにここまでついてきたのだった。

*      *     *


 奢るという井村を制し、それぞれ自分の会計は自分ですませて店を出た。そのまま駅まで連れ立って歩く。
 静は、店を出る頃からずっと考えていたことを思いきってきりだすことにする。
「わたし思うんだけど、確かにわたしの望みはかけらも叶う可能性なんかないよ。でも、井村くんのはそうじゃないよね」
「え? 同じだよ」
「違うよ。だって井村くんは、女の子になりたいわけじゃないでしょう?」
 それは、井村の話を聞きながら感じていたことだった。井村は男でいることを嫌だとは思っても、女になりたいとは思っていない。井村が男でいることが嫌なのは、桐子という女性に愛されることがないからだ。しかし、女として彼女を愛したいとは、井村は思っていない。
「井村くんが桐子さんを思う気持ちは、男としてのものなんじゃないの?」
 そう結論を示し、傍らを歩く井村をちらりと見遣った。井村は唇を引き結び、静からは視線をそらしている。
「井村くんが本当に望んでるのは、桐子さんに愛されたいってことでしょう? それは叶わないことじゃ……」
「叶わないよ」
 鋭く静の言葉を遮る。厳しく、はねのける言い方だった。
「叶わないよ」
「……それ、確かめたことがあるわけ? 桐子さんに言ったことがあるの?」
「あるよ。一緒に住んでた頃、何度だって言ったけど、単に子供の愛情表現としか受け取ってもらえなかった。まるで息子のようにしか、愛されることはなかったよ」
 井村の返事に、静は歯がゆくてたまらなくなる。一緒に住んでいたのは10歳やそこらだ。子供の頃の言葉を受け取められなかっただけで、諦めてしまうのは早すぎる。
「じゃあ今言ったらいいじゃない」
 思わず、苛だっているような言葉になる。
「今、ちゃんと言ったらいいじゃない。連絡はとってるんでしょ? 話すことはいくらでもできるんでしょ。今の井村くんが伝えればいい」
「そんなの」
「無駄じゃないよ。中学生にもならない頃からずっと今まで好きでいる気持ちを、このまま諦める方がどうかしてる」
 たとえば親愛の表現として、ひとときの水泡のような思いとして、井村の気持ちが当時の幼さに相応の解釈をされたのは仕方のないことだったといえる。しかし、それをずっと抱えてきた今、その気持ちがたんなる親愛や仮初めのものだとは、誰にも言うことはできないはずだ。たとえ桐子という人がどれほど年上だったとしても。
 井村は苦しそうに唇を噛んでいる。それでも静は退いてやる気はなかった。
「今、言わなくちゃだめだよ」
 言い含めるように繰り返す。井村は表情を変えず、静から視線をそらしたままで「ごめん、先に行く」と小さく呟くと足を早めた。
「井村くん」
 呼び止めようとする声にも振り向くこともせず、井村は駅前の雑踏へ身を紛れさせてしまった。

 翌日から、大学で井村の姿を見ることがなくなった。静と井村は必修と語学以外に重なる授業はないが、それらにも井村は出席していない。井村と仲の良かった何人かの女の子たちは、辛うじて連絡をとりあっているようだったが、それもだんだんに途切れがちになっていることが彼女たちの会話から知れた。
 あの日、言いすぎたのだろうかと、静は少なからず後悔する。一度は正しく受け取ってもらえなかった気持ちを、もう一度伝えるというのは、井村にとってはとても怖いことだったのではないかと思う。もう一度伝えても、また正しく受け取られずに、息子への愛情のようなものしか返してもらえなかったとしたら。気持ちを伝えることは、井村の中では長くタブーであったのかもしれない。
 それを安易にすすめてしまうなんて、迂闊だった。なんとか井村に謝れないだろうかと思い始めた頃、井村の休学の噂を聞いた。彼が姿を見せなくなって、ひと月が過ぎていた。
 井村は休学し、パリへ留学するという噂だった。
 留学、と聞いて浮かんだのはあの桐子という女性のことだった。仕事で海外にいると言っていたのは井村自身だ。
 井村は、望みを叶えに行くのだ。叶わないことを、もう恐れたりせずに。
 そう思ったら、静は、どうか、と祈らずにはいられなかった。
 まるで自らの望みも託すように、強く祈る。

 どうか、彼の爪の先に星の光が灯るように。

20040829

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