もうずいぶん長いこと、ひとりでいる気がする。
そしてずいぶんと歩いた。かつていた街は遠く離れ、今いる場所は長閑な田園地帯だ。
春の日差しに少し乾いたような白っぽい土に、優しい緑色の野菜が並んでいる。
あぜ道の雑草も繁り、ところどころに小さな花々が見えた。
穏やかな春の景色だ。だが、わたしには恐ろしい。
人が、いない。
ある時、わたし以外の人間がこつ然と消えた。
明るい昼の日中(ひなか)、ふと気がつけばわたしはひとりで立ちつくしていた。周囲には誰もいない。
はじめからわたしひとりしか存在していなかったかのように、あらゆる人間の気配がなかった。
それなのに街は息づいていた。空調が働き、信号が点灯し、日が暮れれば街灯がついた。
誰もいないのに機能しつづける街。
それは狂いそうなほど気持ちが悪く、わたしはぶるりと震えて走り出した。
とにかく街から逃げるために走り、夜が明ける頃に人を探すことを思いついた。
あの街に人がいなくとも、他の土地ならば誰かいるかもしれない。わたしは人を求めて歩き出した。
だが、未だ誰にも会えていない。どこにも、人がいない。
春を謳歌する植物達の前で、わたしは幾度目かの絶望を味わう。やはりもう、わたし以外には誰もいないのだ。
ふらりと歩道をはずれ、田園のあぜ道に踏み入った。柔らかい草と土の感触にやりきれなさを感じる。がくりと膝が崩れた。
どうしてわたしが、わたしひとりだけがここにいるのだろう。何故他の人間が消えてしまったのだろう。
わたしひとりだけを残して、この世界はどうしようというのだ。
両手に力がこもる。手に触れていた雑草が、みしみしと千切れた。それは私の胸の音でもあるようだった。
上手く泣くこともできず、膝をついたまま震えた。が、不意に耳慣れない音を聴いた気がして顔を上げた。
目の前にあるのは、やはり人のいない田園だ。わたし以外、音を出すものなどない。
「…………?」
だが耳慣れない音は、再びどこからか聴こえてきた。今度は何の音であるかがはっきりとわかった。
鈴だ。ちりん、という澄んだ鈴の音だ。
わたしは立ち上がって耳をすませた。人がいる。風もなく、鈴がひとりでに鳴ることなどない。わたし以外の何者かが近くにいるのだ。
また、ちりん、と鈴の音がした。確実に耳に届くのに、どの方向から聴こえてくるのかまったく見当がつかない。
間を置かずにちりちりと小さく鳴るのが聴こえた。そして、りん、というはっきりとした音。
わたしの背後から、だ。
「……探したよ」
びくりとして振り向いた。わたしの背後には、いつのまにか小さな女の子が立っていた。黒く長い髪と白い顔が一瞬で印象に残る。
春に不似合いな黒いワンピースで、わたしをじっと見上げていた。
「……さ、探した?」
驚きでひきつる喉でどうにかそれだけ言うと、少女は小さく頷いた。
「ずいぶんと変わったところに迷ったね。探すのは手間だったよ」
「さ、探したのはわたしの方だ。どうして突然、人がいなくなったんだ」
わたしは少女が何を言っているのか理解できず、困惑して半ば怒鳴るように言った。
「君は知っているのか? 人が消えた理由も、どうしてわたしひとりが残されなければならないのかも。どうして、世界はこんな風になってしまった?」
少女は、ただ狼狽えるわたしをじっと見ていた。表情ひとつ変わらない、というより、少女にははじめから表情などなかった。
黒い目も結ばれた唇も白い頬も、感情を表さないよう定められているようだった。
「世界は変わってない。あなたが迷っただけ」
「迷った?」
「時々、あなたのような人がいる。わたしはそれを迎えに来たの」
「どういうことだ? 君は、何者なんだ」
「わたしは鈴花(リンファ)」
鈴花の言葉は要領を得ない。わたしはますます困惑した。しかし、鈴花はそれ以上説明しようとはせず、わたしに手を差し出した。
ちり、という鈴の音。見れば、少女の手首まで覆うワンピースの袖口に小さな金色の鈴がついていた。
「行こう」
「その、鈴……」
「聴こえたでしょう。これは、あなたのような人を探すための鈴」
金色の鈴はわたしの小指の先にも満たないほど小さい。この鈴が、先刻わたしの耳に届いたような音を鳴らすとは思えなかった。
「行こう」
鈴花は再び言った。わたしはなんだか恐ろしくなり、差し出された鈴花の手を振り払った。
「どこへ行くって言うんだ。どこに行ったって、わたしと君以外誰もいないだろう!」
どこへ行くのも意味がない。ここに、留まっていることも。
鈴花は振り払われた手をもう片方の手でさすり、目を伏せてため息をついた。
「誰もいないわけじゃないよ。あなたに見えてないだけ」
伏せていた目を上げ、鈴花は再びわたしを見た。振り払われた手を、もう一度わたしに差し出す。
「人が、見えるよ」
鈴花の目は、あの表情のない目ではなかった。逆らえない、強い力を持つ眼差し。
わたしは、鈴花の手を、とった。
自動車のエンジンの音が、いくつも聞こえた。
人々のざわめき、靴音。
青信号の点灯とともに、大量の人間が移動する。
見なれた光景だ。わたしがかつていた、あの街だ。
わたしは呆然と、その光景を見た。
「あなたは少し軸を間違えた。それだけだよ」
わたしの手を握ったまま、鈴花が言う。わたしは十分に状況を把握することができず、鈴花の言葉に反応することもできなかった。
「わかったでしょう。さあ、行こう」
ぐい、と手を引かれてようやく我に返った。遅れて鈴花の言葉の意味をとる。
「行く? どこへ。もう帰って来たんだろう?」
「違うよ。ここも、もうあなたの世界じゃない」
「どういうことだ?」
幾度目かの質問をくり返す。鈴花は、あの強い眼差しでわたしの目をじっと見つめた。
「あなたはもう、この世界の人じゃない。この世界の人じゃなくなると自ずと新しい道がわかるものだけれど、時々あなたのようにわからなくて迷う人がいる。わたしはそれを迎えに来たんだよ」
強く、わたしの手を握る。
「新しいあなたの世界まで、わたしが送る」
繋いでいない片方の手を、振る。りいん、と澄んだ鈴の音がした。
20030517