キスをする。一瞬触れるだけのまばたきのような。
それは私を甘やかす、あなたの約束。
* * *
私はいつでも聞き役にまわる。みんな、自分のことを話したい。自分の中に渦巻くいろんなことを、誰かに聞いて欲しくて仕方ないのだ。私はぼんやりとした性質だが、それを察知するくらいのことはできる。私は自分から口をひらくことはせず、相手の言葉に頷き、相づちをうつ。聞いているよ、というサインを示せば、相手は安心するのだ。そして「聞き上手だね」と私を誉めてくれる。気の利いたことを何も言えなくても、誉めてくれる。他人の話を聞く、というのは、ろくに上手な話術も持たない私が選べる、唯一の処世術だった。大好きな『モモ』への憧れもあるけれど(モモは話を聞くだけで他人の人生に影響を及ぼせるのだ、かっこいい)。
でも本当は、私は聞き上手などではない。本当に聞き上手というのは、アキくんのような人をいうのだ。
アキくんは、友達の誕生日を祝う席でたまたま隣に座った男の子だった。友達の彼氏の後輩、と名乗った。
「サチさんもう飲まないの?」
アキくんは初対面の私をすでに名前で呼びながら、如才なく空いたグラスにお酒を注ぐような子で、その愛想の良さと手際の良さには感心させられるばかりだった。鳴沢アキユキという名前を、アキと略して誰にでも呼ばせる屈託のなさが、そういう賢すぎる子にありがちな胡散臭さを取り除いていた。私はすっかりアキくんのつくりだす心地よい空気を気に入ってしまった。お開きになる頃には、うっかり連絡先を交換してしまうくらいに。
それから何度かアキくんも私も含めた大所帯で飲む機会があり、ぼんやりとした私もさすがに気づいた。アキくんのそばでは、私は私のささやかな処世術を意識しなくても居られるのだ。アキくんは適度に自分のことを話し、私のことを聞き出す。バランスの良いように、会話を組み立てていく。
「すごいね」
ふっと会話が途切れたときに、私は思わず呟いてしまった。アキくんは耳聡く聞きつけ、「何が?」という顔をした。
「アキくんは、話し上手だし聞き上手だなあと思って」
アキくんはきょとんとした顔をした後、少し考えて、「サチさん」と私を呼んだ。
「今度ふたりでお茶を飲みに行こう。本当は、お酒より紅茶の方が好きなんだ。サチさんもそうでしょ?」
私がお酒が苦手なこともアキくんにはばれていた。翌日、時間と場所を指定するメールが届いた。
シフォンケーキとロイヤルミルクティーを前にした嬉しそうな顔を見て、お酒より紅茶が好きというのは方便ではなくて本当だったのか、と思う。私は少しばかり疑っていたことを反省しながら、ロシアンティーをひとくち飲んだ。
「俺ね、本当はすごい甘党なの。お酒も飲めるけど、つきあいがないと飲まないし」
ケーキにざくざくとフォークをいれ、次々と口へ運ぶ。見る間に減っていくその様子が面白くて、つい眺めてしまった。大勢でお酒を飲むときよりもアキくんの表情は柔らかく、子供っぽく笑った。
「アキくんといると楽しくて良いね」
私は自分の口からそんな言葉がするりと出てきたことに驚いた。いつもより幼いアキくんの雰囲気につられて、思わず素直に口に出してしまっていた。俺も、とアキくんが言った。
「俺もサチさんといると楽しいよ。サチさんは一生懸命話を聞いてくれるね」
うーん、と思わず苦笑してしまった。
「私ももっと巧く話ができれば良いんだけど、ごめんね」
「違うよ。俺が言いたいのはそうじゃなくて、サチさんは聞き上手だってこと」
それは優しいアキくんのお世辞だと思った。アキくんくらい賢い子なら気づいているはずだ。私が聞き役にまわるのは、ただの口下手の結果であることを。
ありがとう、と軽く返すと、アキくんは「信じてないでしょ」と笑った。
「俺ちゃんと本心から言ってるからね。サチさんに話を聞いてもらうのって、気持ち良いんだよ。頷いてくれたり相づちをくれたり、そういうタイミングをはかるのがサチさんはすごく上手いよね」
途端に、アキくんの雰囲気が変わった気がした。まるで私よりも年上になったような、いつものお酒の席とも違う表情だった。
「たぶん、サチさんみたいな姿勢を真摯っていうんだろうね。サチさんは俺を話し上手で聞き上手って言ってくれたけど、サチさんみたいな聞き方は俺にはできないよ。サチさんに話を聞いてもらって救われた人が、きっとたくさんいる」
私は恥ずかしくてアキくんの顔を見られなかった。こんなふうに手放しで誉められることなど、ある程度年齢を重ねてしまえばほとんどない。そうだと良いけど、と呟くのが精一杯だった。
「そういうサチさんから話を引き出したいっていうのが、俺の希望」
驚いて「は?」と間抜けな声を返してしまった。思わずアキくんの顔を見れば、機嫌の良さそうな笑顔でいる。
「サチさんにも話したいことってあるでしょ。俺はそれを聞きたい。サチさんが自分から口を開かなくても、俺は聞き出したい」
ずっと聞いてばっかりじゃなくて、自分のことも話して、とアキくんは言った。
「みんな自分のこと話したいって思ってるんだよ。サチさんは今まで自分を聞き役にして、話すのを諦めてきたでしょ? 俺はそれを、聞きたいんだ」
アキくんを賢い子だと思った第一印象は、一寸の狂いもなく、真実だったことを思い知る。
それからアキくんは、私のロシアンティーの底に残ったマーマレードを全部食べ(本当は私の最後の楽しみだったのだが、その時の私はマーマレードどころではなかった)、まだ動転している私の手をひいて店を出た。
駅まで歩く間、アキくんは私の手を離さなかった。アキくんに手をひかれながら、私は問われるままにいろいろなことを話した。私も甘党だということ。ビールは苦手だということ。
小さい頃に見た虹のこと。遠足で拾ったどんぐりのこと。
初めて好きになった男の子のこと。初めて好きになってくれた男の子のこと。
口下手で情けない思いをしたこと。
悩みを聞いて感謝されたこと。
『モモ』が大好きなこと。
アキくんは、サチさんはモモだったんだ、と大袈裟に感心していた。モモだったんじゃなくて、モモになりたかったの、と私は言った。
動転の余韻が私の気持ちを高揚させていた。だからといって、雰囲気に流されたとか吊り橋効果とか、そういうことではない。
私は最初から、アキくんの空気を好きだと感じていた。アキくんのそばの心地よさを、私はずっと知っていたのだ。
別れ際に、またねと言ってアキくんはささやかなキスを落とした。慈しむように、私に触れた。
私が食べそこねたマーマレードの香りを残して。
20061104
「くちびるとマーマレード」song by Quinka,with a Yawn/火曜日のボート