はじまりの夜。
 すべては彼が、はじめたこと。

*      *     *


「ひさしぶり」
 チャイムに従ってドアを開けた僕の目の前に、穏やかに笑う彼がいた。
 学生時代に親しくしていた友人だ。明るく、授業をうまくサボりながら及第点をとることしか考えていなかったような奴だった。良い奴だった。
「驚いたよ」
 自然と笑みがもれ、僕は彼を招き入れた。
 親しくしてはいたものの、互いに仕事に就いてからは忙しく、会うこともできずに時候の便りぐらいしか交わしてはいなかった。
 彼の訪問は、あまりにも突然だった。
「どうしたんだよ、急に」
 彼に椅子をすすめ、僕はコーヒーを用意した。彼は、ああ、と曖昧に微笑みながら一通の封筒を取り出した。
「直接渡したかったんだ」
 僕は彼にコーヒーを渡し、封筒を受け取った。
「何だ、これ?」
「見てくれればわかるさ」
 彼はコーヒーに口をつけながら目をふせて言った。
 封筒には、一枚のカードが入っている。招待状。一番はじめに、飾り文字でそう書いてあった。
 招待状。
「……へえ。結婚する気になったのか」
 僕は細心の注意をはらって、それだけをやっと口に出した。
 彼は何も言わず、ただ黙ってコーヒーをすすっている。僕は、つとめて平静を装ってすべての文面を読み終えた。
「おめでとう」
「来てくれるだろう?」
 僕は不透明に笑った。
 僕らはそのまま、ただ黙ってコーヒーをすすった。
 一言も、言葉はなかった。
 やがて僕らのコーヒーカップは空になり、彼は、もう行かないと、と立ち上がった。
「忙しいのか」
 咄嗟に口をついて出てしまった。焦ったような僕の口調に、彼は少し驚いたように動きを止め、悪いな、と笑った。
 あの頃と同じ笑顔だ。片頬があがる、意地の悪そうな。
「返事は後で郵送しておくよ」
 僕はやっとそれだけ言って、出てゆく彼を見送った。

 引き止めてどうする。
 あの咄嗟に出た一言に僕は苛立った。今さら、彼を引き止めてどうするというのだ。
 はじまりを決めたのは彼だった。けれど、あの夜から未来を決めたのは、僕自身だ。
 僕だけだ。

*      *     *


 雨が降っていた。せっかくの満月は長い秋雨でまったく姿を見せなかった。僕らはひさしぶりに、アルバイトもないのんびりとした週末を迎えていた。
 飲もう、と誘ったのは彼だった。毎日授業やアルバイトで忙しく、あまりゆっくり話す暇もなかったから、ひさしぶりに飲もう、と彼が言った。
 場所は彼のアパートメント。飲みに出掛けるだけの金は僕らにはなく、いつだって安いビールやカクテルを買い込んで、どちらかの部屋で飲んでいた。
 僕らの話は級友たちの噂や教授への不満、授業の苦労や笑い話に終始した。ふと会話がとぎれたとき、僕はつきあっていた彼女に振られたという話をした。彼女のことは彼も知っていた。同じ語学のクラスだったのだ。
「他の学校に別に男がいたらしい。一度見かけたよ……僕より背の高い、優しそうな奴」
 僕がそう言うと彼は気色ばんだ。
「いいのかよ、お前!」
「仕方ないさ、ほとんどかまってなかったんだから」
「それはバイトだとかレポートだとか色々やることがありすぎたせいだろう!?」
「でもかまってやれなかったことは事実だ。彼女にはそれがすべてだったんだ。僕は、淋しい思いをさせてしまったんだ」
 時間を共有しようとする努力を、僕はまったくしなかった。それは、彼女の事を考えていなかったからではない。僕は本当に彼女の事が好きだった。
 いつも彼女を思って、自分の気持ちばかり信じていたために、僕は彼女の気持ちをかえりみることをしなかったのだ。僕自身が彼女を思っていれば、関係が壊れることはないと、ずっと信じていたのである。
 しかし実際は、時間的、空間的、物理的に何一つ満足に共有できもしない男など、彼女は信じられなかった。彼女は、ふたりの関係を証明する何かがなければ安心することができなかった。
 気持ちだけでは、関係は続かない。
「そんな……そんなの、あいつの勝手じゃないかよ! お前が気に病むようなことなんかじゃない!」
 彼は真摯な目で僕を見つめ、そう断言してくれた。僕はふっと笑って目を伏せる。
「何笑ってんだよ」
「笑ってない。少し……嬉しいと思っただけだ」
「……」
「有り難いよ、君の言葉が」
 少しの間を置いて、彼は何かを呟いた。何、と訊き返そうとして目を上げた瞬間、僕の頭は彼の腕の中におさめられていた。
「おい……!?」
「そんな顔するな!」
 きつく、抱きしめられる。痛い、と思ったときにはもう彼の腕はゆるめられ、僕らの唇は重なっていた。
 軽いそのキスの後、彼はもう一度僕の頭を抱きしめた。いたわるように。
「俺に、そんな顔見せるなよ……!」
 悲痛なまでのその声。僕を抱きしめている腕の、優しい熱。
「俺の言葉でいいなら、いくらでも、何でも言ってやる。俺でいいなら、何でもしてやる。……気付いてたか、俺がこんな風に思ってたこと」
 僕は何も言わなかった。何も、言えなかった。
「嫌なら、そう言っていいんだ」
 ……彼の低い声が、腕を伝わって直に頭に響く。
 その振動は心地良く、彼の熱は僕をとらえている。
 耳のすぐそばに、彼の鼓動がある。
 こんなに優しい腕、気持ち……。
「……」
 僕は泣いてしまった。僕の泣いた気配に、彼は慌てて僕の頭を放す。
 ――――目を合わせる。
 それから僕らは、深く唇を重ねた。僕は彼の腕の熱に身をあずけた。
 ……最後に僕は、きっと泣いていた。

 次の朝、目を覚ますと彼はもういつもの彼で、僕らはただの友達になっていた。彼は何も言わず、僕も口をつぐんでいた。
 僕らはそのまま卒業し、仕事に就いた。それからは会う機会もほとんどなく、会う努力も怠った。
 僕らの関係は、たった一度で終わった。

*      *     *


 彼が出て行ってから、僕はずっとダイニングの椅子でぼんやりとしていた。
 とうとう、本当の終わりがくる。
 あの夜、僕は彼に惹かれた。嫌なんかじゃなかった。僕を労る腕や、何でもしてやると言った彼の声、彼の気持ちに嘘など微塵もないと思った。だから彼の腕に身をあずけ、僕は未来を決めたのだ。
 けれど今、僕の決めた未来が閉ざされてゆく。彼は、僕が見たこともない女性に奪われてゆく。僕は唇を噛んだ。本当は、こんな風に悔しがる資格も、悲しむ権利も僕にはない。僕はただ待っていただけで、ずっと彼を追うこともしなかったのだから。
 しかしそれが、僕の精一杯だったことも本当のことだ。彼の腕を、熱を、ずっと忘れずに身体の内に燻らせていることだけが、僕にできる精一杯だったのだ。
 この身の内に未だ残る熱。これを、僕は消してしまわなければいけない。彼の為にも。
 僕は立ち上がる。少し外に出ようと支度をした。外に出て、軽く飲んで、自分で決めた道を、絶ってしまおう。
 部屋から出て、マンションの1階まで降りる。どこへ行こうかと頭を巡らせ始めた時。
「よう」
 覚えのある声がかかる。驚いた。心臓が止まるかと思うほど、僕は驚いた。
目の前に、彼がいた。
「今、お前の部屋に行こうと思ってた」
 言いながら、彼は手にしていた花束を僕に渡す。僕は呆然として、渡されるままにそれを受け取った。
「どうして……」
「1番大事な話があるんだ」
 彼はそう言って、口元にやわらかな笑みを浮かべた。目は真摯に、僕を見つめる。話、と僕が訊いた。すると彼は一瞬の間を置いて、言った。
「お前と暮らしたい」
「え……?」
「一緒に、暮らそう」
 ――――その、微笑み。
 僕が見た中で、1番優しい彼の微笑み。
 けれど僕は混乱してしまって、何の言葉も出ない。呼吸すら忘れそうになる。
「あの招待状。あれに書いてある名前の女とは、先月婚約を解消したんだ」
 式直前だったから、あちこちに迷惑をかけたけど、と彼は苦笑する。それでもその表情にはどこか、ずっと先の光を見つめるような明るさがあった。
「お前のことは諦めて、普通に結婚してしまおうと考えてたんだ。でもいざとなると……。諦められるようなら、初めから気持ちを明かすことなんてしないよな」
 嫌か、とまた彼が訊く。答えなど、わかっているという風に。
 嫌なはずはない。
「ずるいな……そんな訊き方……」
 僕はやっとそれだけ言って、不覚にも泣いた。彼の目の前で、また泣いてしまった。彼はそれを見ると、片頬で笑った。
 そして、僕を抱きしめた。
「また泣いてる」
「うるさいな……」
 彼は声をあげて笑った。僕をさらにぎゅっと抱きしめる。
「あの夜も、お前最後に泣いただろう?」
 トーンを落とした声が、腕から身体から伝わる。
「少し後悔したんだ。お前は抵抗しなかったけど、同意をしてくれた訳でもなかった。自棄になってたのかと、ずっと思ってたんだ」
「違う……」
「うん、わかってる。それから先のことを、待っててくれたよな」
「わかってて、どうして」
「迷ってたんだ。お前を本当に巻き込んでいいのか。1度だけなら、気の迷いとして忘れることもできるだろう? それに、お前の弱味につけこむような形だったし……」
 馬鹿だなあ、と僕が少し笑うと、彼もまた笑った。
「うん、馬鹿だったな。本当は、俺も深みにはまるのが怖かっただけかもしれない。お前を言い訳にして、逃げようとしたのかもしれないんだ」
 実際、こんな風に時間をかけてしまった。彼はそう言って、情けないよな、と付け加えた。
「ここに来るのも迷ったんだ。お前が、俺とのことを全部終わらせていたらと思って。でもお前は、笑って俺を迎え入れてくれて、引き止めようとしてくれた」
「まさか……」
 僕がひとつの可能性に思い当たって呟くと、彼はあっさり肯定した。
「引っかけたんだ、少し。お前が招待状を見て、何でもないように祝福したら、もう諦めるつもりでいた」
「卑怯だ……!」
「ひどいな。せめて小心者と言ってくれよ」
 僕は祝福の言葉は言った。苦い思いが表にあらわれないように、機械的な響きで。けれど、式への出欠席は保留にした。その時に、まだ間に合うのかもしれないと思った、と彼は言う。
「それなら、どうしてさっき言ってくれなかったんだ」
「花を買うためだよ。花を買って、完璧なプロポーズをしようと思ったんだよ。こんなに待たせてしまったんだしね」
「本当に馬鹿だな……」
「嬉しくないのか?」
 彼はまた、ずるい訊き方をする。僕は何も言えなくなって、少し鼻をすすった。
 消してしまおうと思っていた熱が、僕の中でよみがえる。
 今、僕を包む彼の腕が、燻らせていたものをあたためている。
 僕はもう、それらを忘れようとしなくてもいいのだ。
 諦めなくても、いいのだ。
 僕は、そろそろと彼の腕をほどいた。
 そして、自分から、彼に口づけた。あの時のような軽いキスだ。
 彼は少し驚いた顔をして、あの意地の悪そうな笑い方をした。僕は微笑んだ。
 彼が始まりを決め、僕が未来を決めた。
 そして、それからの長い迷いと苦しみと、砂粒のような希望の欠片に、最後の答えを示したのは彼だ。
 同時に、新たな始まりをも彼は決めたのだ。
 新しい未来を決めるのは、今度は僕ひとりではない。
「君と暮らしたいよ」
 僕は彼の首に抱きついて、耳もとで囁いた。

20030308

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