opalus

 彼女の手は白くなめらかな皮膚を持ち、華奢な骨格を、薄い肉とその皮膚とが優しく包みこんでいる。その様子は触れれば壊れてしまいそうというよりは、触れることさえ大罪であると感じられるほどの清浄さだ。しかし、触れれば己の穢れも浄められるような心持のする、気高く凛とした空気さえ持つ不思議な手でもあった。
 彼女は左手の指を可憐にひらめかせ、珈琲の注がれた器の縁をなでた。その5本の指を彩る、月長石にも似た爪が煌めく。色彩で飾ってもいない爪がこれほどに輝くのを、彼女の他に僕は知らない。

 その指に、爪にみとれていた僕は、たった1枚のそれが暗くよどんで濁っているのを見逃さなかった。彼女と初めて逢ったときからずっと目についていたその1枚の爪の理由は、まだ訊いたことがない。わざわざ訊かずとも良いし、彼女が話したくなれば話せば良い。気にしないことにしているのだ。だがそんなものはただの“振り”にしかすぎず、僕の目は無意識にその爪を追ってしまうのだった。その視線に気づき、彼女の右手は濁った薬指の爪を磨くようになでる。
 おかしいでしょう、と彼女が言った。穏やかさの底に、はしゃぐような様子が漂っている。珍しく僕の真似をして珈琲にたらした洋酒に酔っているようだ。ほんの数滴分の酒精も、酒を呑みつけない彼女にはよく効いてしまうらしい。僕は否定も肯定もせず、口元で笑んで先をうながした。

――ずいぶんと昔の話。この爪に口づけをくれた人がいたの。
 僕は意識せず渋い顔をしていたのかもしれない。彼女は笑って、あなたの知らない人よと続けた。
――互いの薬指の爪に口づけをして、互いの心に忠誠を誓ったの。
 それは、永遠の愛の誓いだ。
 絶対の、破られることなど決して許されない誓約。彼女にそんな相手がいたことを僕は知らなかった。
――とても、とても幸福な誓いだったの。この先どれほど生きても、死に分かたれることがあったとしても、ただひとり、ただひとつの想いにのみ忠誠を誓う……

 彼女は瞳をうるませ、夢をみるような視線を遠くに投げる。あなたにも、と言いさして唇を閉ざした。馬鹿げたことを言おうとしたと悔やむように、それが引き結ばれる。わかります、と僕は言った。僕の中にも忠誠を誓う想いがあり、相手がいる。ただ同じだけの応えを決して得ることができないだけだ。すべてを口にして彼女を追い込むことはしないが、忘れさせないよう時々こうして繰り返す。彼女の、わずかに哀しみを浮かべる眦(まなじり)をみる。彼女の愁いは、僕に小さな痛みと共に愚かしい期待さえも運ぶのだ。彼女の表情にみえるのが、憐れみではなくまだ哀しみであるのなら、彼女の胸の内に僕が忍び込む隙間がまだあるということなのだ。それほどの度胸と小賢しさを僕が持ちあわせていなくとも。

 彼女の話に水をさしてしまったことを視線で詫びる。彼女は気弱に微笑んで、先を続けた。
――ただ誓うことだけで満ち足りる時間は、長くは続かない。幸福にはいつしか慣れてしまうのね。
 まだ見えない未来に、僕にもそのような時がくるのだろうか。いつか、彼女の想いを得られることがあったとして、その想いに慣れ、満たされなくなる時が。今の僕には少しも想像のつかない話だ。
――慣れきった幸福は幸福ではなくなるの。不思議なものね、不満というほどでもないのに。私は誓いを交わしたあの人以外の人に、心を寄せてしまったの。
 呆れるでしょう、と彼女は目を伏せた。僕は言葉がない。いいえ、と弱々しく呟くだけで精一杯だった。僕がこれほどに焦がれている彼女の想いを、かつて手にした人間がふたりもいることが信じられないでいる。僕は見知らぬ彼らに幼稚な嫉妬をおぼえた。

――でも、私はその人に何も告げなかった。その人も、私に何も……。ただ一度、こらえきれずに手をとりあってしまっただけ。あまりに愛しくて、手を握りあってしまっただけなの。
 その瞬間に、彼女の薬指の爪は輝きを失い、濁ってしまった。誓約を交わした相手以外にあふれるほどの心を寄せた、それは罪の証なのだ。
 しかし、変化があったのは彼女ばかりではなかった。
――その人の薬指の爪も、同じように濁ってしまったの。その人にも誓う相手がいたのね。……私たちはそれ以降、二度と触れることも、逢うことさえしなかった。
 何故、と思わず口にしていた。もしも僕がその人なら、彼女と新たに誓いを交わすだろう。罪を背負いあう者同士、共に生きようと考えるだろう。
 僕の考えたことを、言葉にせずとも彼女は感じとり、諦めたように微笑んでみせた。
――私もその人も、自分を許すことができなかったの。私たちは幸福だったのに、それを裏切った。それはあまりも傲慢なこと。綺麗事だと言われたこともあるけれど、私たちにはその選択しかできなかった。お互いに離れること、誓いを交わしていた相手の元にも戻らないこと……
 綺麗事だと、僕でさえ思う。だがそれを責めることも、笑うことだってできない。彼女のその気高さと清らかさをこそ僕は愛しているのだ。彼女たちの選択は、あまりに愛しい。

 僕は無意識に手をのばし、彼女の手に触れた。彼女が驚き、ぴくりと強ばる。僕は彼女に一度も触れたことはなく、僕のその臆病さが彼女を安心させていることも承知していた。けれど今、あふれだした愛しさをこらえることはできない。かつてのふたりのように。
 僕は逃げようとする白い左手を強く握った。もしも、今とろうとする行動によって僕も罪を背負ったとしても、決して後悔はしないだろう。僕はきっとその罪を誇りに思い、かつての彼女たちとは真逆の選択をするだろう。
 僕は彼女の白い手に顔を寄せ、暗く濁った薬指の爪に、口づけをした。
――なんてことを。
 彼女は顔色を変え、強く手を引いた。僕から逃れた左手を胸に抱き、手は、と涙を浮かべて問うた。
 僕は素直に自分の左手を差し出した。しかし僕の爪は濁ってなどいない。ほっとする彼女に、あなたの手は、と今度は僕が問い返した。
――私の手なんか、何も変わらない。あなたまで巻き込んでしまわなくて良かった……

 安堵の涙を拭く彼女の左手に、今度はそっと触れた。両手で包み込む。彼女と同じ罪人にはなれなかったことを無念に思いながら、彼女の爪を確認する。
 変わらずに暗く濁ったままのそれを、ため息とともになでた。すると、薄い膜のように濁りが剥がれてゆく。生え際からふつりとちぎれ、なでる僕の指に沿って剥がれ落ちた。
 暗い薄膜の下から、蛋白石の光沢があらわれる。
――何故……
 彼女は呆然と呟く。僕は息を呑み、信じられない思いで何度も繰り返し彼女の爪をなでた。何度なでても蛋白石の光沢は消えない。何かの錯覚でもないのだ。彼女の爪は、まるで罪を許されたかのように濁りが消え、ひときわ美しく七色に煌めいている。僕は嬉しさがこみあげ、衝動的に彼女の爪にふたたび唇を寄せた。それでも足りなくて、細い肩を抱きしめた。
 彼女は解き放たれたのだ。
――こんなことが起こるなんて……
 僕の腕の中で泣いている彼女が、涙の合間に当惑した言葉をもらす。
――私は今まで、この爪を理由にあなたのような人たちを傷つけてきたのに。
 僕は愕然とした。あまりに清冽な彼女は、罪が許されることさえ自分では許すことができないのだ。己によせられた多くの好意に、恋心に背を向けてきたことを、それらを無下にしてきたと、そう思っているのだ。
 そうすることで彼女とて傷つかなかったはずがないのに。
 僕は彼女をさらにきつく抱き、許します、と言った。あなたが自分を許さなくとも、僕はあなたを許し続ける。そう言葉をつなぐうち、僕の目にも涙が浮かんでいった。
 彼女はもう言葉もなく、僕の背に手をまわして泣くだけだった。

20051011

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