桜線

 小夜彦(さよひこ)が、生前決して連れて行ってはくれなかった場所がある。
 いつかの夜に、珍しく酔ってぽつりとこぼした、老いた桜の大樹の話だ。
 桜の樹には、古今を問わずいわくがあるものだ。どの花にもひとを本能的に恐れさせる静謐な凄絶さがある。
 だから小夜彦の桜の大樹も、そう珍しい話ではないと思った。行ってみたいと言うのは易かった。
 しかし、実際は容易な話ではないのだ。
 どんなに行きたがっても、小夜彦は決して連れて行ってはくれなかった。本気で行きたいと思っていたわけではない。ねだった時の小夜彦の困った顔が見たかった、ただそれだけだった。
 それから小夜彦は先に逝き、3年が過ぎた。
 小夜彦を失った悲しみは、桜の話など忘れさせた。思い出したのは、3回忌があったからだ。3年ぶりに小夜彦の弟に会った。小夜彦が好きだった甘い酒を一緒に飲み、ふと思い出したのだ。問えば、弟はこともなげに言った。ああ、それはうちの田舎にある桜の樹の話です。
 実家の近くに古く立派な桜の樹があった。その樹の根元には、かつては小さな祠があったということだが、もう失われて久しく何を祀っていたか覚えている者もいない。桜の樹は毎年力強く枝を張り、桃色に見えるほど艶やかな花を咲かせた。だが、土地の人間は決してその花を愛でようとはしない。
 祠を失くした神様に引きずられると教わりました、まるで子供だましの迷信ですが。弟はそう言って笑うが、彼もその桜の下で花見をしたことはないと言う。三つ子の魂何とやらで、長じて後も安易に近づくことはしなかったと話す。
 弟に場所の詳細を聞き出し、行ってみることにした。折よく、北の故郷ではそろそろ咲く季節ではないかと弟が教えてくれた。己の意思に関わらず、小夜彦との記憶は次第に遠ざかってゆく。そうやって悲しみを癒そうとする己の精神を、許さず、戒める意味を込めて、小夜彦の故郷へと発った。

 そこは、小さな山村だった。村の入り口で駅から乗ってきたタクシーを降りると、運転手が帰りも電話するようにと名刺をくれた。弟に描いてもらった地図をたよりに桜の樹をめざす。
 点在する家屋はどれも古びた平屋で、住人の気配のないものもいくつかある。過疎がすすんでいるんですよ、という弟の言葉通りだった。彼らの両親もすでに亡く、実家に住む人はもういない。年に数度、弟が手入れに訪れるが、戻るつもりはなく、荷物を整理したら解体するつもりだということだった。
 神社へと続くような石段をのぼり、広く開けた場所へ出た。何もない、ただ平らに均されただけの土地だ。手入れもされず、雑草が生い茂っている。その土地の隅に、例の桜は立っていた。
 幹は大きくうねり、四方に太い枝が張り出している。その枝を薄桃の花弁が毬のようにふっくらと包み、微風がそれをほろほろと落としてゆく。満開を迎えた桜の樹は、艶やかでありながら重厚な存在感を持っていた。しかし佇む様はひっそりとして、その周囲には鳥の声もない。
 目に映る景色と印象の相違に戸惑いながらも、誘われるように近づいて行く。年経た木肌に手を触れた時、幹の向こうに人の影を見い出した。
「ここに来るとは思わなかった」
 人影の口から発せられた声は、まだくっきりと覚えている。3年前に失われてしまった低く甘い声音。
「ずっと、ここはだめだと言っていただろう、朝歩(あさほ)」
 朝歩、と名前を呼ばれる心地よさを思い出す。ふっと息を抜くように、小夜彦は名前を呼んでくれていたのだ。
 気に入りの春物の上着を着て、小夜彦は立っていた。都市では早春に着ていた、春物なのに黒い色の丈の長い上着も、この北の土地では相応の季節だ。
「小夜彦」
 思わず駆け寄って、かつてしていたように黒い上着に手をのばし、握りしめた。皺になると小夜彦は困っていたが、そうやって小夜彦の一端につながっていることは、かつても今も変わらずに安心を与えてくれる。胸元にあずけた頭に、小夜彦の大きく薄い手が添えられた。
「朝歩。ここへは……」
「小夜彦を忘れそうになる。3年も経つと……忘れたくなくても、少しずつ思い出せなくなっていく。それが、怖くて……」
 なだめるように小夜彦の手が頭をなでる。その仕草だけで、小夜彦が困っているだろうことが知れた。
「俺のことなんて忘れてかまわなかったんだよ、朝歩。おまえにはもっと時間がある」
 小夜彦の言葉はもっともで、忘れるべきであることはわかっている。だが、過去を遠くに追いやってこの悲しみを癒すような野蛮を、己に許したくはない。
「忘れたくない。小夜彦を忘れるなんて、嫌だよ」
 駄々っ子のようにかぶりを振る。頭上で小夜彦の嘆息するのが聞こえた。
「それでも、こんなところへ来てはだめだ。何度せがまれても、絶対に連れて来なかったのを覚えてるだろう? 理由があるんだよ」
「どんな?」
「朝歩。この桜の樹は、境界なんだよ。こうやって俺があらわれるように、朝歩の生きるところとそうでないところとの、境なんだ」
 風が吹き抜け、花弁が散った。この場所へ立った時には音もなくこぼれた花が、今は風に揺らされてざわざわと騒がしい。鳥の声もなかったはずが、桜の花の中から甲高い笛の音に似た声がする。得体の知れない気配があたりを囲むのを感じた。
 不意に、小夜彦の両腕に包まれる。
「小夜彦?」
「ごめん、朝歩。本当はこんな風に会いに出てくることもいけなかったんだ。会ってしまえば手放せなくなることなんて、わかってたのに」
 生前にも聞いたことのない、切迫した小夜彦の声に胸が詰まる。上着を握りしめていた手を放し、小夜彦の背中へまわした。
「手放さないで。ずっと、一緒にいよう」
 突風がひときわ乱暴に花をかき乱した。枝から切り離されたように花弁が散って、舞う。同時に、小夜彦との境がどんどん曖昧になっていくのを感じた。黒い上着も互いの服も、皮膚の一枚も曖昧になって、ただ小夜彦の魂だけが己の魂と触れ合っている。いつかはこの魂も、境を失ってひとつに混じり合うのかもしれない。

 乱暴な風が吹き抜けた後には、舞い散った花弁が地に降りるばかりだった。

20070119

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