その声で

 恋に落ちるのは簡単だ。罠のようなその一瞬を意識したなら、手遅れ。
 たとえばそれは、私にとってはナナエという名前を読み上げる声、だった。

 2年になって日本史の教科係になったことに対しては、特に何の感慨もなかった。授業前の準備が面倒な体育や、ノート提出の多い英語じゃなくて良かった、と思う程度だ。日本史の先生は今年赴任したばかりの先生で、どんな人なのかわからなかったけど、体育や英語に比べたらたいしたことはないと思っていた。
  始業式で壇上にいたその人は、まだ20代くらいの男の人で、市原裕介(イチハラユウスケ)と名乗った。中肉中背、スタイルは悪くなくグレーのスーツは似合ってもいる。
 ただ、地味だった。見目は確かに悪くはないが、とびぬけて目をひく程でもない。「みなさんよろしくお願いします」という凡庸な挨拶が終わると、大多数の女子生徒が興味をなくした。わたしもその一人だった。
 でもクラスでの最初の授業は悪くなかった。日本史が大好きなんだろうと思わせる語り口ではあったけど、そういう先生にありがちな陶酔した様子はなく、受験用のポイントも押さえてくれる。ノートがまとめやすい。授業の終わりには、その日の内容をまとめた課題プリントが配られる。
「課題は明日回収する。チェックして次の授業で返す。教科係、回収よろしくな」
 終業のチャイムと共にそう言って、先生は出て行く。
 そこでようやくわたしは、しまった、と思う。これは予想より面倒な係かもしれない。

 翌日の昼休み、わたしは課題を回収し、社会科準備室へと向かう。
 失礼しまーす、と間延びした挨拶で引き戸を開いて準備室へ入ると、ちょうど市原先生しかいなかった。机に向かっていた市原先生は、顔をあげる。
「ああ、確か2年の……」
「2Aの皆川(ミナガワ)です。日本史係です」
 名乗りながら課題を手渡す。先生は、ありがとうと受け取って、早速ぺらぺらとめくり始めた。
「先生、もしかしてこれ毎時間やるの?」
「もちろん。というか皆川、先生には敬語使えよ……」
 わたしの言葉遣いに呆れる先生をよそに、わたしは「ええー」と不満をあわらにする。毎回回収してここまで届けるのは、正直面倒くさい。
「一応これやっておけば自分で復習しなくて良いようになってるし、とっておけばテストの時にも便利だぞ、これは。……お、皆川の発見」
 めくっていた手を止めて、先生はわたしの課題を抜き出す。全体にざっと目を通している。
「ちょっと本人の前でやめてくださいよ!」
 隠そうとして手を出すも、先生にあっさりと避けられてしまった。一応ちゃんとやってきたつもりではあるけど、目の前でチェックされるのは恥ずかしい。
「ふーん。なかなか良くできてるじゃないか。授業ちゃんと聞いてたんだな」
 偉いぞ、と茶化して、でも嬉しそうに先生がほめてくれた。口元がゆるんでいる。
 なんだ、この人。大人のくせに、表情が素直だ。
 始業式でも昨日の授業でも、まじまじと顔を見たことはなかったな、と思う。意外と、睫毛が長い。すっきりした目尻。鼻はそれほど高くはないけど、かたちは悪くない。
「……へえ、皆川の下の名前って可愛いんだな」
「えっ、あ、はい?」
 話しかけられて我に返る。なんだかぼんやりしていた。というよりも、もしかして今わたしは、この人に見とれていなかったか? 首のあたりがどっと熱くなって、湿った手を握りしめた。
 まさか、と思うのと、先生が声を発するのとが、同時だった。
「ナナエ」
 響きを楽しむように読み上げた、声。
 その声が、動揺しているわたしの心臓に追い打ちをかける。
「奈苗か。可愛い漢字を書くんだな」
 傍らのわたしを見て、先生が笑んだ。最後通告だ、と頭の隅で思う。
 顔が赤くなっていくのを自覚する。心臓はおさまらない。
 もう、だめだ。降参!
「好きです!」
 瞬間、先生の笑んだ口元が音をたてて凍り付くのがわかった。
 わたしはといえば、自分の言動の唐突さに驚き、呆れ、先ほどまでの動揺とは逆に急に冷静になっていくのを感じる。
 しかし、ごまかす方法も思いつかない。妙に度胸が据わってしまって、わたしはじっと、先生が口を開くのを待った。
 1分もたたずに正気を取り戻した先生は、すごいと思う。
「皆川」
 笑みを保ったまま、実に普通の調子で先生はわたしを呼んだ。
「はい!」
「俺、若く見えてもお前たちよりは年寄りだから、若者の冗談にはついていけないよ」
 課題ありがとう、もう戻っていいよ。先生はそう言うと、わたしの課題を束の一番下に差し込んで、課題チェックを始めた。
 私は成す術もなく、失礼しました、とぽつりと言って、準備室を出た。

 準備室を出たその足で、わたしは人のいない会議室へと駆け込んだ。ここは内側から鍵がかかる。鍵をかけてようやく、大きく息を吐き出した。
 今頃になって焦りが襲ってくる。突然、その時の情動にまかせてとんでもないことを口走ってしまった。これから1年は週に何度も顔を合わせなきゃいけない人に。
 でも、わたしが強く感じているのは、後悔よりも悲しい気持ちの方だった。
 冗談と流されてしまった。当然の反応だ。まともに口をきいたのも初めての女子生徒からの告白なんて、冗談にする以外に対処のしようがない。
 それでもこんなに悲しい気持ちになるなら、たぶんこれは、冗談ではすまない。
 わたし自身は本気だということだ。
 本当にこれは、恋、なんだ。
 覚悟を決める。もっと、ちゃんと、私が本気だということを、先生にわかってもらわなきゃいけない。
 今度は、冗談なんて笑われないように。
 ぐっと拳を握って、大きくひとつ呼吸をした。よし、と気合いを入れて鍵を開ける。聞こえてきた5時間目のチャイムを聞きながら、わたしは教室へと走り出した。

20081014

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