約束

 ぱたぱたと、シーツに赤いしみが散る。ほんの少しナイフの刃をつきたてただけで傷ができる。赤い血が流れる。シラはじっとそれを見つめる。赤い血のしみを眺める。もっと深く傷をつけようとしたとき、ばたん、とドアの開く音がして、強いちからで腕を掴まれた。何してんだと苛立った声が問う。シラの傷口を舌で舐めた。
「俺より先に楽になるな」
 傷口に口唇を触れたまま、ヴィスは睨むような眼をして云う。まだしみの新しいシーツを裂いて止血を施した。シラはまだ手にしていたナイフをヴィスへ向ける。シラの手をほんの少し傷つけただけではわずかも曇りはしない。ナイフはまだ銀色にひかり、思わぬ光線で眼を灼きそうなほど閃く。シラはその刃ですうっとヴィスの頬を撫でた。一筋の赤い線。ヴィスは眉をひそめ、またシラの腕を掴んでナイフを心臓へ向けさせた。「狙うならここだ」と云う。
 シラの身体がびくりとこわばる。ヴィスはクッと笑って手を離す。
「俺を殺せもしないくせに、死ぬつもりだったのか?」
 シラはナイフを投げ捨て、ヴィスの頬を張った。そのまま部屋を出て行く。ヴィスはそれを見送った。
 ヴィスは以前女に云われたことを思い出した。栗色の髪を長くのばし、ヴィスよりも酒を飲む女だった。
 女は云った。
「あの娘、どうすんの。救えるつもり?」
 まさか、とヴィスは笑った。救うなんて考えてなどいなかった。
「ただ、一緒に堕ちることはできるだろ」
 そう答えたあと女は何と云ったのか、思い出せない。ただその二日後に女は死んだ。酩酊し、大陸を侵食する海に呑まれて死んだ。

 ヴィスは方舟に乗り損ねた。これ以上は乗せられない、と役人が云い、ヴィスの眼の前で最後の方舟の扉が閉ざされた。ヴィスの他にも乗れなかった人間は大量にいて、一斉に泣叫んだ。絶望し、その場で命を絶つ男もいた。混乱し、他人に掴み掛かる女もいた。あの酒を飲む女は狂ったように笑った。近くにいた男にうるさいと殴られても笑い続けた。ヴィスはそのすべてに人間を見た。すべてが人間だった。ただひとりだけ、自分だけが何もできなかった。泣くことも叫ぶことも、女のように笑うこともできずにただひとりで人間を見ていた。自分だけが人間ではなかった。
 なぜ、こんなにも何も感じてはいないのか。絶望も、混乱も、ヴィスからは遠いところにある。ヴィスはひとりだけ冷静だった。狂うべきときに狂えないことほど苦しいこともない。ヴィスは楽になることができずに、侵食する海に脅かされる大陸で、残された日々を生きなければならない。人間を見ながら。

「殺してくれと云ったのに」
 酒を飲む女は黙って口づけをし、数日後には自分だけ海に呑まれた。ヴィスの眼の前の扉は、再び閉ざされた。



 ドアが軋んだ。先刻飛び出して行ったシラが戻って来ている。あのわずかな諍いなどなかったかのように、ヴィスのもとへ寄ってもたれかかる。ヴィスはそれを抱きしめてやった。狂えないのは自分だけではない。互いに触れあうことで、互いにそう確認する。最も安心して、哀しみを味わう刻だ。

 シラは方舟に乗らなかった。方舟に人々が乗り始めたとき、シラは愛していた男のもとへ走っていた。ともに生き延びようと思っていたのだ。男は部屋にいなかった。部屋はおそろしくがらんとしていて、人の気配が全くなかった。先に逃げたのだ、とシラは思った。方舟へ行けば男が待っている。シラは方舟の港へ走った。港は方舟に乗ろうとする人々があふれていた。シラは男を探した。この人出では見つからない。それならば先に方舟に乗っていれば男に会えるだろう、そう思って方舟に向かったとき、男を見つけた。男は誰かの手を引いていた。シラは咄嗟に男を呼ぶのをためらった。男が引いていたのは、赤ん坊を抱いた女の手だったのだ。通りすがりに手を貸しただけだろう。そう思いもしたがシラはためらった。呆然というように男を見つめた。すると男の方がシラに気づき、顔を強ばらせた。そして、一瞬だけ泣きそうな表情を見せ、真顔になる。そのとき声を出さずに動いた男の唇を、シラは読み取ってしまった。すまない。それがすべてだった。女は男の妻で、赤ん坊はその子供なのだ。
 シラはひとりで方舟を見送った。方舟に乗ろうという気は、もうかけらもなかったのだ。けれど男を恨んでもいなかった。妻子があることに気づきもしなかった自分に腹立つこともなかった。終わる。ただそれだけを思った。大陸は海に侵食され、いずれ完全に沈み、そして世界は終わる。終末を待ちながら、シラは不思議に静かだった。それがどれほど辛いことかさえ、シラにはわかっていた。

 謝らないでほしかった。自分になど眼もくれず、あの女だけを必死で連れて方舟に乗ってしまえば良かったのに。恨む余地を、わずかでも残しておいてくれたのなら。



「海を見にゆこう」
 シラがぽそりと云った。高台へ。大陸を、残された人々を、世界を脅かす海を見に。ヴィスはシラの髪に軽く口づけをして抱きしめていた腕を解いた。ふたりはゆっくりと立ち上がり、手をつないで住処の廃ビルを出た。
 高台へのゆるやかな坂をのぼる。言葉も視線も交わさない。つないだ手だけを離さないように、坂をのぼる。大陸はすでに大部分を海に呑まれ、濃い霧で空気は重い。ふたりの衣服は静かに湿る。


 ヴィスにはこの坂を駆け上がった日があった。方舟が大量の人間を置いて出港してしまった日。人間でない自分を見つめた日。ヴィスは人間が恐ろしくて高台へ逃げようと坂を駆けた。
 シラにはこの高台でうずくまっていた日があった。男が自分を置いて女と子供を連れて行ってしまった日。方舟をひとりで見送った日。終わりを待とうと高台でうずくまっていた。
 その日も霧は濃くたちこめて、壁のように視界を塞いでいた。
 ヴィスはうずくまる女を見、シラは駆ける足音に視線を向ける。
 泣いている。相手の涙を見た瞬間、ふたりは自分の涙にも気がついた。

 そこから先は、もう抱きしめ合った互いの体温以外憶えているものはない。狂えないふたりは街へ下り、廃ビルに住みついた。互いに救われたかった訳でなく、慈しまれることを望んでいた訳でもない。共に堕ちる。それだけが残された日々を生きる最後の安息。楽になれないことを確認し合いながら、生きる。感情が麻痺することもなかった。哀しみばかりがつもってゆく。


 高台から、もうすぐそこまで迫った海を見下ろす。霧ばかりだった視界は晴れてゆく。十六夜の月が見える。遠くから轟音が近づいてくる。
「波」
 シラは云う。ぎゅっと強くヴィスの手を握った。ヴィスはそれをしっかりと握りかえす。終わる。予感が走った。
「これで終わりだ」
 ヴィスは云う。シラはただ頷いた。世界の終わりが来る。波は轟音をたてて残されたこの街を呑む。ふたりにはその光景が見えた。街では高台へ逃げようと走り惑う人々であふれているだろう。けれど彼等は高台へ辿り着くことなく、波に呑まれ海に溶ける。そして最後にこの高台を呑み、シラとヴィスを呑み、海は世界を手に入れる。シラはさらに強くヴィスの手を握った。
「恐いのか」
 ヴィスは訊く。シラは違う、と首を振った。
「約束」
 ヴィスの眼を見た。
「百年後、千年後……いつでもいい。生まれ変わるなんて信じてないけど、いつかまた会いたい」
 約束しよう。シラは云った。ヴィスは少し驚いて、そして眼を細めた。微笑みをうかべる。
「いいよ」
 約束しよう。ヴィスは云った。守られることなど、ないかもしれない約束。それだけで最期にこれほどまで安らげる。
 シラは願う。もし本当に来世というものがあるとしたら、この約束とこの瞬間の記憶だけは、決して失われることのないように。
 波の轟音はもうすぐそこまで、来ている。ふたりはかたく手をつないだまま、それを迎えようとしていた。

20030526

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