爪先に星の光を

 視界の端で艶やかな黒い布地がひらめいて、静(しずか)は舌打ちをしたい気分になった。授業の始まる30秒前のギリギリで飛び込んできた人物が、静の席の隣を通り過ぎてゆく。
 その人物は黒いマーメイドラインのスカートを揺らし、唯一空いていた静の前の座席へついた。走ってきたのか、黒いコットンニットの肩が上下に動いている。静はため息をついた。受講者数の多い語学の授業が呪わしい。
 この90分を嫌いな人間の背中を見て過ごさなければならないのか。
 いっそ隣なら良かったかもしれない。意識して見なければいいだけのことだ。姿が視界に確実に入るという点で、前の席に居られるのは始末が悪い。
 静は授業を放棄することに決め、机の脇にかけたカバンから本を取り出した。

 見事に聞き流した90分を終え、教科書類をしまいこむと迅速に教室を出る。1秒でも早くあれを視界からはずしたかった。
 ブラウンのコンバースで廊下を踏みしめ、エレベーターホールへ向かう。2基あるうち、折よく1基が到着したので乗り込んだ。他に誰も乗っていなかったので、ひとつ大きく呼吸をした。
 今日はもう授業がない。特に用事もないのでまっすぐ帰ろうと、開いたエレベーターの扉から踏み出す。教室棟の出入り口を出たその時、背後から声がした。
「宮橋(みやはし)さん!」
 聞き慣れてはいないが、聞き覚えのある声だった。静は息をのみ、奥歯を噛みしめる。聞き覚えはあっても、この声に呼ばれる覚えなどない。気づかないふりをして行ってしまおうかと迷っているうちに、追いつかれてしまった。つかまってしまっては無視するわけにもいかず、仕方なく振り向く。
「良かった、追いついて……」
 声の主は階段を駆け降りてきたようで、息を切らせている。ニナリッチが軽やかに香った。
「何?」
 あなたと親しくするつもりはない。そういう気持ちをこめて無愛想に言い放つ。しかし相手はそれを気にする風もない。
「これ、さっき教室に忘れたよね?」
 にこやかに、手に持っているものを差し出す。布製のカバーのかかった文庫本だ。静は思わず、あ、と声をあげた。
 それは先ほどの授業中に読んでいた本だった。布製の藍色のカバーには、おぼろげな花の形が染め抜かれている。去年の誕生日に友人からもらったものだ。気に入っているので、持ち歩く本には必ずかけていた。
 授業の終わる頃、教授が板書した構文を指して必ずテストに出すと言ったので、あわててノートをとった時に本を手放し、そのまま忘れてきてしまったようだ。あの教室の机には、天板の下にノートや本を置くスペースがある。思い返せばそこに置いたまま、カバンに入れるのを忘れていた。
「ああ、うん、わたしのだ。ありがとう」
 たとえ嫌いな人間と言葉を交わすことになったとはいえ、大事なものが戻ってきて良かった。警戒していた心が一瞬緩み、静は本に手をのばした。同時に、相手はそれをすっと引いてしまう。
「何なの?」
 静は気分が悪くなり、顔をしかめて相手を見る。相手は薄く笑みを浮かべていた。
「ちょっと話がしたいんだけど」
 少しつきあってくれる? 相手は視線でそう告げる。
「コーヒー1杯でもつきあってもらえれば、返すから」
 そう言って藍染めのカバーをちらつかされては、嫌でも頷くしかなかった。

*      *     *


 アンクルストラップの黒いパンプスの後をついて行った先は、落ち着いた雰囲気のカフェだった。
 大学からそう離れてはいないものの、駅からは反対方向にあるそこに学生らしき姿はない。フロアが半地下のような状態なので、天井がやけに高く感じられた。よくこんなところを知っているものだと、静は向かいに座る人物を見た。
「それじゃあ、たぶん知ってると思うけど一応」
 オーダーをすませ、店員が離れていくと相手はそう口を開いた。
「井村(いむら)です。井村浩和(ひろかず)」
 ニナリッチの香りのする彼が名乗る。静は、その名前をよく知っていた。
 井村浩和は大学の有名人だった。
 何が有名なのかは、彼を見れば一目瞭然だ。彼は常に女物をまとっている。
 井村は男性の骨格ではあるが、細身なために女物を着ていても不思議と違和感がない。男性にしては線の細い輪郭を持つせいだともいえる。小さな頭と細い体とで、遠目には女性と見ることも可能だった。
 しかし近くで見れば間違いなく男性である。入学式にも女物のスーツで出席した井村は、その日のうちに大学中に存在が知れわたっていた。
「ええと、宮橋……静さん。で、合ってるよね?」
 確認を求める井村に、静は憮然と頷く。
「そうだけど。よく、わたしの名前なんか」
「知ってるよ。同類でしょ、僕たち」
 反射的に井村をにらむ。それは静が最も聞きたくない言葉であり、けれどおそらく大学では大多数がそう認識しているだろうことでもあった。
 井村は静の険しい視線にもひるまず、にこりと笑う。ちょうどオーダーしたカフェラテが運ばれてきた。井村はカップを手にとり、一口飲んだ。
「宮橋さん、入学式にポール・スミスのスーツ着てたよね。すごく似合ってたから、よく覚えてるんだ」
 静が入学式に着ていたのは、ポール・スミスのメンズだった。就職活動にも利用できる無難なスーツが多い中、素材も仕立ても格上の細身のピンストライプは目立っていたと井村は言う。それは彼だって同じだと静は思った。野暮ったいリクルートスーツの群れに素晴らしく美しいラインのジバンシィが混じればどれほど目立つか、わからないはずがない。
「ジーンズはハリウッド・ランチ・マーケットみたいだけど、シャツは今日もポール・スミスだよね。好きなんだ?」
 井村に好みを指摘されるのは、なんだか癪にさわる。静は素っ気なく、まあね、と言って自分もカフェラテを一口飲んだ。カップを置くと、お返しとばかりに口を開く。
「井村くんはヴィヴィアンが好きなのね。入学式はジバンシィだったみたいだけど」
 わざとらしく井村の胸元を見やる。そこにはオーヴの刺繍があった。井村はバッグもヴィヴィアン・ウェストウッドを使っている。
 静の視線に気づき、井村はオーヴを指で撫でた。
「うん、ヴィヴィアン好きなんだ。わかりやすくて恥ずかしくもあるけど。ジバンシィも嫌いじゃないけど、入学式のは母親からの借り物。自分ではヴィヴィアンとかグレースとか、可愛らしいのをつい選んじゃうんだ」
 楽しそうに話す様子に、静は思わずため息をつく。苛々した。
「……ごめんね」
 ため息を聞きつけ、井村はしおらしく謝ってみせる。それは静をさらに苛つかせた。謝るくらいなら付き合わせるなと思う。
「ごめん。宮橋さんが僕を嫌ってるのは知ってるよ。こんな格好で目の前をうろうろされたら、宮橋さんみたいな人は嫌な気持ちになるよね」
「わかってるのに声かけたの」
「うん。嫌われてても、どうしても一度は宮橋さんと話がしてみたかったから」
 話したいことなんかこっちにはない、と言おうとしてやめた。さすがにそれは言葉が過ぎる。それにおそらく、静も井村に対して興味がないわけではないのだ。嫌いだという感情を持つ程度には、井村の存在を認めている。
 言葉を止めた静に、井村はさらりと問いかける。
「宮橋さんは、どうして男物を着るの?」
「………………それを井村くんが訊くわけ」
「異装をする動機が必ず同じとは限らないよ。僕の場合と宮橋さんの場合は違う。僕はずっと、宮橋さんが何を思って男物を着てるのか、すごく訊きたかった」
 それは今まで何度となく尋ねられたことでもある。静はいつも、同じことを答えてきた。
「大袈裟な理由があるわけじゃない。単に、こういう服が好きなだけだよ」
 ただ好きだから着ているのだと言えば、たいていはかたがつく。人の好みにまで口を出すような暇な人間など、そうそういるものでもない。それに、この答えは決して嘘でもないのだ。
 しかしこの相手が、これで納得するはずがないことを静はわかっていた。
 井村は目を伏せ、少し笑った。
「使う建て前は似たようなものだね。僕が言うより奇異に聞こえないのはうらやましいな」
「建て前じゃなくて、本当のこと」
 静が強調するのに反応したように、井村は目をあげる。宮橋さん、と諭すような口ぶりで呼んだ。
「それが嘘じゃないのはわかる。でもそれだけじゃないことも、僕にはわかってるんだ。ただ好きで着てるだけなら、そんな目はしないよ。僕を見て苛ついたりもしない。そうでしょ?」
 僕は真面目に話がしたいんだ、と井村は続けた。静はため息をつく。
「そんな目って、どんな目してるっていうの」
「すごく、切実な目。ギリギリの縁でどうにか立っているみたいな、もう後がないって目してる。必死なんだよね。後がないけど、すすむこともできないって、わかってるんだよね?」
 遠慮のかけらもなく言いつのる井村を、思わずにらみつけた。井村にそこまで言われる筋合いなどない。まるで見透かしたように、自分でもどうにか押し込めて隠してきた危機感を引きずり出してつきつける権利など、目の前の男にあるはずがない。
「……そんなの、井村くんだって同じじゃない」
 深い怒りを滲ませて、それだけ言い返す。すると井村は一度口を閉ざし、奥歯を噛み締めてから、そうだよ、と絞り出した。
「同じだよ。だからよくわかる。よくわかるから、話してみたかったんだ」
 井村は目を伏せ、気持ちを落ち着かせるようにカフェラテをゆっくりと口に含んだ。その仕草にひどく傷ついたような雰囲気があり、静は罪悪感を抱いた。同時に、傷つけられたのは自分も同じだという気持ちもある。ひとりだけ傷ついたような顔をするのは卑怯だ。しかしそれを糾弾することなど意味がない。結果として静も黙り込み、カップを口元へ運んだ。
 三口ほどカフェラテを味わって小さく息をつくと、井村は気を取り直して静を見据える。
「教えてくれる? 宮橋さんの理由」
「……わたしだけが話すのはフェアじゃない。井村くんが話すならわたしも話す」
 静も真っ向から井村を見返し、そう条件を提示した。井村は一瞬迷い、頷いた。
「そうだね。自分のことも話さなきゃフェアじゃないね。……僕は、好きな人がいるんだ」
 目線をカップへと落とし、穏やかに語り始める。
「イヴ・サンローランを着こなす、とても格好良い人でね。僕はその人にとても憧れていて、その人にふさわしくなりたいとずっと思ってきた」
 静は邪魔にならないよう、小さく相づちをうった。すると井村がちらりと目線をあげ、かすかに笑む。
「その人、男だと思う?」
「そう……だね。井村くんを見てると、その方が可能性が高いように思うけど」
「うん、そう思われるだろうな。でも、その人は桐子(きりこ)さんて名前の女の人なんだ。――そして桐子さんは僕の母の恋人だった」
 え、と思わず声が出た。しかしその後に何と言っていいのかわからなくなってしまう。その様子に井村は小さく笑った。
「僕の母は父と結婚して、僕を生んですぐ離婚したんだ。僕を引き取るのは母の方になった。母のもとにはいろんな人がやってきて、みんな父親の代わりのように僕を可愛がってくれた。それは男の人だったり女の人だったりしたけど、今思えばみんな母の恋人たちだったんだ。母はバイセクシャルだったみたいでね」
 井村はそこで間を置いて、カフェラテを飲んだ。
「でも母は誰かを僕たちの家に一緒に住まわせたりはしなかった。母の隣にはいつも誰かがいたけど、彼女は本当にたった一人で僕を育てたんだ。そういうけじめにはとても厳しい人で、恋人たちが僕を必要以上に甘やかさないように注意してた。でもそんな中でも桐子さんだけは特別だったんだ。僕がまだ10歳くらいの頃、桐子さんは僕たちと一緒に住んでた」
 けじめに厳しい母親が同居を許した恋人。それの意味するところは、静にも察しがついた。
「事実上の再婚だったんだと思う。戸籍をいじったりはしなかったけど、僕たちは家族みたいに暮らしてた。3年くらいの間だったかな。すごく楽しかったよ」
 その日々を思い出したのか、井村は目を細める。愛おしい思い出を懐かしむ人間の表情は、どうしても寂しく見えて静は苦手だった。
「母は男性も女性も愛せる人だったけど、桐子さんは女性しか愛せない人だった。いつも僕を見ては『ヒロが女の子だったら良かったのに』って言うんだ」
「それは……」
「うん、勝手な言い分だよね。男に生まれちゃったのは仕方がないことだし。でも桐子さんに出会ってから、僕もそう思うようになった。母が冗談半分で、小さい頃から僕に女の子の服を着せていてね、僕もそれは嫌いじゃなかったんだ。だってどうしたって女の子の服の方が可愛かったから。物心ついてからは自分で選んで女の子の服を着るようになってた。そしてね、そうすると桐子さんが喜ぶんだよ。Aラインのサーモンピンクのワンピースなんか着てると、『そのへんの女の子なんかよりヒロの方が何倍も可愛い』って」
 細い指で髪をすいて、満面の笑みで可愛い可愛いと言ってくれたのだと言う。慕う人に、それほどに喜んで可愛がられるというのはどれだけ幸せなことだろう。しかし、その後に続く『女の子だったら良かったのに』という言葉の痛みもどれだけのものか、静は思わずにはいられなかった。
「自分が男だということが、僕はだんだん嫌になってきたんだ。僕が女の子だったら桐子さんはもっと喜んだだろうし、もしかしたら愛してくれたかもしれない……」
 そこで一度口を閉ざし、きつく奥歯を噛みしめる表情を見せたのは、おそらく無意識だ。静はいたたまれなくなり、カフェラテのカップへ視線を落とした。
 性別ひとつで、好きな人の心を得られないという絶望感は、いったいどれほどのものか静にははかり知れない。ましてや井村の場合、相手は同性ではなく異性なのだ。しかし異性であるがゆえに、決して愛されることはない……。

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